都電網研究会インタビュー#2

大穂耕一郎さん(小学校教諭)
2009年5月29日 飯田橋にて

◇僕のいま住んでいるところは八王子市なんですが、実家が文京区小日向(こひなた)というところにありまして、昔は、家からちょっと歩くともう、「電車通り」でした。それから、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷(みょうがだに)駅が、歩いて10分のところにありましたので、都電と丸ノ内線に囲まれて育った、というところです。僕は1954年、昭和29年生まれで、丸ノ内線の開業より1週間だかそこら、僕の方が誕生が早いんですね、そういう世代です。

都電は、子供の頃から沢山乗ってたんです。身近な交通機関ですし、僕は乗り物が大好きでしたので・・・その辺のことは、ここ(ネコ・パブリッシング刊「国鉄時代」連載「空とレールの間には」第1号)にも書いてあります。「都電見物未遂事件」「都電タダ乗り事件」とか(笑)、こういったことで、親しんできました。

ただ、小さい時は写真を撮るということがほとんどなかったんで、中学に上がるまでの都電の写真というのはないんですよね。それが今になっても本当に残念です。僕はよく、須田町の交差点で、(運転系統)1番の「5500形」っていう・・・いわゆる「PCCカー」ですか、あのスタイルの電車を見て、「オオッ、スゴいなあ、こんな都電もあるのか」なんて驚いた記憶があります。須田町のあたりは交通博物館とか、良く行ってましたんで、その頃の写真がないのが非常に残念です。

それで、僕が写真を撮り始めたのが、1968年の10月くらいですなんですね。ちょうど時代的には・・・鉄道史ですけど東北本線の盛岡〜青森間が電化開業、というあたりで撮り始めたんです。近くの都電も、高校に入ると撮るようになりました。高校は小石川高校でしたので、近くの江戸川橋から都電の20番というのに乗って、千石(せんごく)一丁目まで、毎日通ってました。

>>音羽(おとわ)通り、不忍(しのばず)通りですね。

◇そうです。護国寺から大塚三丁目から、氷川下を通ってと、2年間続いたんですけど、2年生の終わりに都電が廃止されまして、それから一度だけ、代替バスには乗ったんですけど、それがすごく嫌で・・・それから1年間、もう歩いて学校に通いましたよ(笑)。まあ歩いても30分くらいで、大したことはなかったんですけど。

>>バスでは、なぜ嫌だったんですか?

 

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◇何だかね、いくら学校に行くためとは言え「代替」バスに乗るというのは、何だか悔しかったんですね。あの頃、これは20番と同じ時に廃止された19番、 場所は駒込駅ですが、こういう「ありがとうございました」の花電車、これは良く見かけました。

家の近くは、15番も走ってたんですよ。都電の15番は高田馬場から、早稲田、江戸川橋、飯田橋、九段下、小川町(おがわまち)のところで曲がって、日本橋に行って茅場町、というので、小さい時は日本橋のデパートへ行くのに15番の電車によく乗りました。

その15番も中学3年のときになくなりました。ただ、そのときはまだね、あまり都電の廃止ということに特別な意識はなかったですね。「アア、なくなっちゃったー」ぐらいだったんですけれども、やっぱり鉄道ファンとしての意識も芽生えちゃうと、公共交通である都電が「クルマの邪魔だ」と言われて廃止されていくのは、悔しかったですね。

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◇それで、高校の時は、よくこの20番の「6000形」っていう電車で通ってまして・・・これ皆さんも乗りました?ちょっと前まで、これは走っていましたよね。

>>荒川線で「一球さん号」として、この6000形の保存電車が2002年まで毎週日曜に走っていて、乗ったことがあります。

◇そうですよね。20番は当時「6000形」「7000形」「8000形」が走っていましたねえ。

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◇それから、これが僕の高校ですね。いまは中高一貫校になっちゃって、もうヒドいらしいんですけど(笑)、これが電停で、もう壊されるんで黄色い安全棒みたいなのが立ってますけど・・・1971年3月17日に撮ったんですね。20番の最終日です。

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◇もう一つ、僕のところの近くに走っていたのが16番で、この写真の左側が文京市役所です。春日町の交差点から、真砂坂(まさござか)を登って上野の方に行くところなんですけど、16番は大塚から錦糸町までの路線です。いまは「グリーンライナー」という都バス路線になって、僕はちょっと前にこれに乗ったんですけど・・・久しぶりに乗ったんですよ。僕はいま、八王子在住なんで、こっちの方でバスに乗るってことがなかったもんで、何だか久しぶりに乗って「これって16番の代替バスじゃないか」って、そのときは思い出があって悔しいのもあって、何だか涙が出てちゃってね。「この路線、何で都電じゃないんだよ」っていう、そういう心境ですねえ・・・

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◇これは20番の、上野動物園前ですね。奥の歩道橋の向こう側がモノレールですね。ここの風景がすごく好きで、通ってましたね。ここの専用軌道の感じが、何だか良かった(笑)。この写真を撮った頃は、上野駅で駅員のアルバイトをやっていて、土曜の夜は泊まりで、日曜の朝に帰ってくるっていうパターンが多くて・・・国鉄の職員パスを貰っていたから、国鉄に乗ればタダだったんですけど、でもわざわざ、上野公園から20番に乗って・・・そうすると、日曜の朝ですと速いんですよ、電車のスピードが。それが楽しくってですね、よく都電に乗って帰りました。

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◇これは須田町です。僕が小さい頃はこのあたりで、お袋がオーダーメイドの洋裁をやっていて、この右側に生地の卸屋さんがあって、そこにしょっちゅう買い物に来てたんです。だから買い物のついでに交通博物館に寄ったり、あとは電車をずっと眺めていましたね。

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◇この写真も須田町ですね。北から南に向かって撮っていますけど、これは19番(王子駅前〜通三丁目(とおりさんちょうめ))の電車ですね。

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◇これも19番、場所は東大前ですね。

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◇これは下町の、錦糸堀車庫の「1500形」っていう古いヤツで、出っ歯みたいなカタチで、個人的に格好はあまり好きではなかったけど、何だかこう、いかにも下町の電車という感じだったんですよ。(場所は)どこかの橋ですけど、どこでしたかね。

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◇ここは三ノ輪橋です。こんな感じだったんですけど、今はどうなっていますか?

>>電停ホームがかさ上げされましたし、軌道の配置も変わっています。雰囲気は結構変わりましたね。

◇でもいま荒川線に乗ると、ホームが狭くて怖い電停がありますよね。そういうところは一列になって待たなくてはいけないし。あれはちょっと何とかならないかなあ。でも、荒川線が残るって決まったときは、感激して友達と見に行きましたよ。飛鳥山の歩道橋の上で、ボーッとなって見てましたからねえ(笑)。

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◇これは荒川線、飛鳥山ですよね。7000形が、ボディを換えてリニューアルした頃です。

>>この電車はいまでも荒川線を走ってますけど、周りのクルマのデザインを見ると隔世の感がありますね。

◇そうですよね、クルマがすごい(笑)。手前のはブルーバードですか・・・奥はトヨエース。そうそう、この頃は(電車の集電装置が)「パンタグラフ」ではなく「ビューゲル」だったんですよね。昔の都電はみんなビューゲルでしたから、終点の停留場に行くと車掌さんが「ヨイショッ!」とワイヤーを引っ張って、ググッとビューゲルの方向が変わって、架線から火花が「バン、バン」って散ってという、そういう光景が見られましたね。

>>この写真の頃、リニューアルした7000形のステップはどうなっていましたか?写真ではステップがないようですけれども。

◇やっぱりヨイショッとよじ登ってたんですよね。当時の都電はみんなヨイショ式で、しかも安全地帯がない電停も多かったんです。僕がよく使っていた石切橋電停(15、39番)も安全地帯がなくて、こう(手を高く上げて)、掴まって「ヨイショ」でしたねえ。それに慣れていたから、公共交通ってそういうものだと思ってたんですよね。当時はバスだって国鉄だってそうでしたものね。

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◇ここは上野動物園前です。この6000形ですけど、20番って、走っている電車のサイズが大きくて、16番とかには6000形は入ってなかったですね。そんなことも憶えています。

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◇これは8000形って言って、いまでも高岡(富山県)の万葉線に、これをちょっと横に引き延ばしたような電車が走っていて、そっくりなんですよね。格好は良いんだけどよく揺れたんですよ、この電車は。だからちょっと安物っていう感じもしました。その前に製造された7000形の方が頑丈だったですね。

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◇これは上野公園ですね。

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◇これが僕の高校の2階から撮った、20番の都電ですね。こんな感じで走ってました。僕は高校のときは鉄道研究会に入ってまして、高校2年の時に都電廃止の話が出て、2年の終わりには廃止されちゃうって言うんで、僕は冗談じゃないって怒ってね。ちょうどこの頃、学園紛争のあったときですから、タテカン(立て看板)書くのは当たり前だったんですね。僕も鉄道研究会で、タテカン立てましてね。「都電から見えるところに立てようぜ」なんて言って「都電廃止絶対反対」なんて書いて(笑)。

>>それは、何年頃のことでしょうか。

◇確か1970年でしたよね、タテカン立てたのは。70年安保とか、ああいう時代でしたから・・・ただこの頃は、千石一丁目で交差する18番はもうなくなってましたね。志村橋の方から来る電車です。

>>ということは、(18番の地下を掘った)地下鉄三田線は・・・

◇ええ、三田線はもう巣鴨まで来てましたよ。高校では、その三田線で通ってくる連中が多かったですね。都電でというのはごく少数派でした。

>>その頃、都電がクルマの渋滞に巻き込まれて、動かなくなってダイヤ?が乱れるということは既にあったのですか?

◇いや、都電にダイヤってありませんでした。僕の感覚でもダイヤってないんです。行き当たりバッタリで、朝同じ時刻に電停に行っても、すぐに電車が来るときもあるし、5分も待たされたりしたこともあったり、都電ってそういうものだと思っていて、まあ、あんまり来ないと「何かあったのかな」って・・・でも、大体すぐに電車が来てましたから、そこは気にならなかったですね。

>>今の荒川線でも、特に日中はダイヤは明確ではないですね。当時、都電の本数は多かったのですね。ただ、所要時間については、クルマに邪魔されて遅延が出たりとか、そういう要因はあったのかな、と思いまして。

◇日曜日の早朝は、確かに速かったですね。子どものときは日曜の朝、親父と魚釣りに良く行ってたんですよね。16番に乗って錦糸町まで、そこから浦安まで行ってたんですけど。僕がよく乗ったのは竹早町(たけはやちょう)の電停で、今の小石川何丁目だったっけ・・・丸ノ内線の車庫の上でしたね。それか、教育大学前。今の茗荷谷駅前ですね。で、そこから乗るでしょ?何かね、スピードが普段と全然違いますよね(笑)。

ダイヤは元々ないわけですから、道が空いてりゃ飛ばすんですよね。もうすごいですよ、(身体を揺すって)こんなに揺れますからね、でも気持ちいいんですよね!錦糸町までね、30分なんてかかってないですよね。とにかく滅茶苦茶速い(笑)。

>>都電にスピードメーターが付いてなかった時代ですよね。

◇そう、スピードメーターなんてない、ない(笑)。まあそんなにスピード出したら危ないですけど、クルマの影響を受けないと、都電も結構な乗り物でしたね。運行に影響を受けたのは、まず交差点の右折車ですね。

この写真だってクルマは片側1車線ですけど、右折のクルマは、この都電の軌道敷の中で待っちゃうんですよね。1台でも右折のクルマがいると、信号が青になってもそのクルマは赤に変わる直前まで、線路のところで停まっているわけですよ。確実に信号1サイクル待たされるという、あれは非常に腹立たしかったですね。

そういう意味で、クルマのちょっとした右折なんかをどうするかっていう施策を打っていれば、また軌道敷にクルマの乗り入れをしなければ、状況はだいぶ違ってましたよね。僕が写真を撮っているのは大体休みの日ですから(笑)、写真ではそんなにクルマが大変なようには見えないですけどね。

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◇ここは大塚三丁目の交差点で、坂を登ってきたところで、左が16番で向こうが20番の電車ですね。

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◇これは16番の7000形で、この電車が好きだったんです。ちょっとマニアックですけど、若番(わかばん:ナンバリングが製造初期のもの)の正面窓の割り付けが3枚になっているのが好きだったんですね。若番じゃないのは2枚窓だったんですけど、僕は3枚窓が好きでした(笑)。

7000形は16番の大塚車庫にいっぱいいたんですけど、この7001号車は7000形の製造第1号ですから、これに当たると一所懸命自転車で先回りしたり、終点で折り返してくるのを待ったりして、写真によく撮りました。

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◇これは13番、新宿から秋葉原、水天宮前(すいてんぐうまえ)までの路線で、すぐそこの、神楽坂を下りてくる路線ですね。これが先になくなったのかなあ。

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◇ここは飯田橋です。歩道橋の上から撮りました。

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◇これは日本橋です。道路元標ですね。ここ、石原知事か誰かが首都高を地下に埋める、って言ってたんだっけ。

>>いや、石原知事ではなくて小泉元首相ですね。石原知事は「日本橋」の名称をどこか近くの橋に移すアイディアだと報道がありました。

◇ええっ?それは信じられないなあ!

>>まあ、確かにその方がお金はかからないんでしょうけど、あのアイディアに賛同の声は殆どなかったですね。


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◇これも日本橋です、この22番は日本橋から南千住まで行ってたんですよね。

>>人が待っているのは電停のホームですね?

◇はい、安全地帯です。面積はほんのちょっとですねえ。このやり方はやっぱり怖いですよね。

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◇これも日本橋の交差点ですね。このね、クロッシング(軌道の交差部分)は、昔はあちこちにありましたが、渡る時の独特の揺れと音があるんですね。縦揺れで、「ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン・・・」とね、8回音が鳴るんです。これは身体で憶えてますね。この38番の電車は江東区の東陽町から砂町、亀戸(かめいど)を廻って、錦糸堀まで行ってました。

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◇これは東陽町の先の専用軌道のところ。奥にガードで横切っているのは小名木川(おなぎがわ)の貨物線ですね。

>>いまは緑道公園になっているところですね。


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◇大島(おおじま)一丁目ですね。こんな土の上も走っていたのは、いま考えてみるとスゴいことですよね。

>>この辺りは以前、研究会で何度か歩いたことがありますよ。いまはもうアスファルトとコンクリートで、どこもすべてキレイに舗装されてますね。いま遊歩道になっているあたりですかね?

◇そう、砂町までは道路上を走っていて、この辺から道を斜めに入って行くんですよね。

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◇これは江東区の竪川(たてかわ)と言うところの橋ですね。都電の専用橋ですけど、こんな感じのところもありました。この次の電停は水神森(すいじんもり)で、その次が亀戸・・・というルートですね。

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◇で、こういう看板がどこの停留所にでもあってですね、これが全盛期の都電の地図なのかな。どこそこへ何分で行けるかが、書いてあるんですよね。

>>備考欄が面白いですね。

◇「早朝ないし夜間は1割から2割時分が短縮」・・・いやもっと短縮してましたよ。ヘタすると5割とか(笑)。

>>所要時間のみということは、何時何分に電車が来るというような、ダイヤみたいなものは、全くなかったんですね。

◇運転士がダイヤ見ているのは、見たことないですよ。

>>職員の運用はあって、何系統に電車を何台、運転士さんや車掌さんを何人出す、というのがアバウトにあったかもしれないですね。

◇そう、そんな感じでしょうね。行き先なんかも、例えば20番なら、千石一丁目から上野の方に行くとすると、上野広小路止まりがあって、須田町止まりがあって、あと20番は神明町(しんめいちょう)に車庫があったんですけど、神明町車庫から日本橋の通三丁目、銀座の手前ですね、そこ止まりもありました。もっと昔は銀座まで行っていて、その系統は40番と呼ばれてましたね。あとはたまに、20番が池袋に入ってましたよ。

>>池袋は本来、17番の系統ですね。

◇そうなんです。それが来ると「ああ、家に帰れないじゃないか、何で池袋行きなんだ」なんてガッカリしたりね。ちょっと歩きゃ良いので、大したことなかったんですけどね。まあいろいろありましたけど、時刻表があって、「次は池袋行きが来るから待っていよう」なんて、そんなようなのは何にもないんですからね。いま考えてみれば、ずいぶん不親切な話ですよね(笑)。

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◇これはね、隅田川の新大橋です、昔のトラス式のね。

>>僕は昔のデザインの方が好きですねえ、重厚感があって。いまのは斜張橋で、どうも存在感が薄いというか・・・まあ昔のはこう造らないと、橋を支えられなかったんでしょうがね。

◇当時もいつもこのくらい、道路が空いていれば良かったんでしょうけどね。とにかく僕が写真を撮っているのは、大体が日曜の朝ですから。都電で行ったり、自転車で行ったり・・・

>>影に長さがあるので、いかにも早朝の写真という感じが出てますよね。


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◇これは、錦糸町駅前ですね。で、左の高架は総武線の線路なんですよ。この頃はもう、20番とか16番が廃止されちゃって、それでもしょうがなくって、高校3年生のときはこっちまで撮りにきていたんですけど。この電車は7000形の若番だから、廃止された16番から転属したってことですね。

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◇あっ、これなんか日本橋の看板が写ってる・・・これが7000形の、多数あった2枚窓のヤツですね。これはあんまり好きじゃなかったけど、撮りました(笑)。

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◇上野広小路です。24番っていうのは、須田町から柳島、福神橋まで行ってましたね。浅草から吾妻橋を渡っていたかなあ。それで、都電が5両も写ってて、16番なんかがクロスしていたんですね。写真を撮っていて、なかなか面白いところでした。ただこの写真の時点では、16番はもう廃止になっていました。

>>第24系統は、最後まで残っていましたね。

◇そうですね、24番はあとまで残っていましたね。

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◇20番の6100号の電車は、僕は一番好きだったですね。これに乗れると「ああ、今日は運が良いぞ」なんてね。何だか最近、女子高生なんかの間で、この電車に乗れると運が良いなんて、そんな話を富山の子がしてるって聞いたんですけど・・・

>>富山ライトレールの「ポートラム」ですね。あれの赤い色の電車でしたっけ。

◇ああ、そうだ(笑)。当時の僕にとっては、それが6100号なんですね。好きな番号だったんです。

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◇これはお茶(の水)大前ですね、大塚二丁目。こんな、雨の写真です。

>>反対側の電車は、向こう側に停まるんですか?それとも手前にですか?

◇いや、向こう側に停まります。

>>電停の施設は、ただラインが引いてあるだけなんですね。

◇電車が来るとこの囲みに、人がトコトコ歩いて来るんですよ。いま考えるとこれは危ないですよね。電停に人がいるときは、クルマは停まらなくちゃいけないことになっていたけどねえ・・・

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◇これは大塚三丁目で折り返す電車で、こういうのもあったんです。これから神明町、上野の方に折り返して行くんだけど、そのために「渡り線」が通してありますよね。

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◇これも大塚三丁目です。

>>後ろの都バスに、都電のような「系統板」が付いているのが、珍しいですね。

◇ああ、このバスね。この塗り分けは美濃部都政のときの、白とブルーのカラーでしたね。そのあとの鈴木都政の時、美濃部とは違う色にするってんで山吹色と赤の塗り分けにしたら、「ケバケバしい」って苦情がいっぱい来ちゃったというね(笑)。

>>ああ、それは憶えがありますねえ。一応、都電のカラースキームなんですけどね。冷房車を導入したので判りやすいようにって狙いもあったようですけど。あんまり評判が悪くて結局、いまの緑色に塗り替えちゃった(笑)。


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◇これは教育大前ですね。いまでは茗荷谷駅前というバス停になっています。昔は「茗荷谷」よりは東京教育大があったから「教育大前」の方が通りが良かったですね。

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◇これが最後のときです。さっきの大塚三丁目ですけど、16番のお別れでね。人がワーッと、カメラ持って集まりましたね。

このときの僕のカメラっていうのは、ピントも露出もシャッタースピードも「全手動」ですから。露出計も持っていなかったんで、全部自分で見当を付けて。これでもコントラストはつけたつもりなんですけど、でもやっぱりダメですね。

>>16番の廃止は、特に乗り物ファンではない人にも、かなり惜しまれたんですか。

◇やっぱり何だか、みんなワーッと来てましたよ。「これだけの人が最初から乗っていれば、廃止にならなかったのに」とも思いましたよ。だから、そのときは何だか腹が立ったり、複雑でしたね(笑)。

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◇これ、浅草です。後ろが東武のデパートですからね。こうやって並べると、いろいろ撮ったんだなあと思いますね。

 

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◇これは錦糸堀です。都電の後ろにクルマがドドドッと繋がっているでしょ。クルマが軌道敷まで入ってきている。ラッシュアワーだとこれがもっと酷くなる。これがなければ、まったく状況は違うわけですよね。当時、酷いときは「ダンゴ運転」が続いていましたが、やっぱり定間隔で運行できたでしょうね。そういう意味では本当に「悔しいな」と思いますね。

>>少なくとも、軌道敷の1車線分だけクルマが入らないようにすれば、都電は生き残れたということですね。

◇そうだと思いますね。例えば広島なんか、軌道敷の自動車乗り入れ禁止策をとって、路面電車を残しているわけですよね。都電の軌道敷にクルマを入れたのが、1959年だったかなあ。あれがそもそもの間違いだと思います。それから、都電はもう古いっていうイメージの問題もあったけれど・・・確かに古い車両は多かったし、右折の信号でいちいち停まって遅いというのも、定着してしまってたんですけれどもね。

だから、僕は高校の鉄研で、交通局に申し入れに行ったんですよ。申し入れと言っても、まあ「廃止の前にとにかく文句だけは言っておこうぜ」という感じでしたけど、行ったら、「クルマの邪魔になりますから」と、こうですからね(苦笑)。交通局の人間がそんなことを言っているんですからね、「何だこりゃ」って帰ってきましたけど。

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◇この蒸気機関車の写真ですけど、これは場所は木曽、都電20番が廃止されたちょっとあとの写真です。蒸気機関車がまだ走っているような時代に、都電はもう廃止されて行った、そんなことが言いたかったんです。

こちらの研究会の皆さんは、また新しく都電を敷きたいという意欲も持っておられるとのことですが、今度都電が池袋に乗り入れるような話も聞きますし、そういう条件の整った場所を、荒川線の軌道敷をベースにして展開できれば、良いんじゃないですかねえ。

でも、いまの荒川線も、この間久しぶりに熊野前から町屋へ乗ったときに、安全地帯が狭いっていうのを痛感して「あれえ?」なんて・・・いや、それでも新しくなったときは良かったなと思ったんですよね。これはすごいと思ったんだけれども、いまでは、やっぱり「狭い」し「混み過ぎ」ですよねえ。乗車機会の問題というか、稼ぎたい時に電車の本数を出せないというのは、お客さんをむざむざ、逃がしちゃってる気がします。

まあ、それで昔の都電の問題というのは、僕が鉄道を通して世の中に何か訴えようという契機になった問題なんです。いま、僕は秋田内陸線というローカル線のサポーターをずっとやってますけど、都電の時に悔しい思いをしているわけです。それから国鉄の分割民営化のときも、僕はあのやり方は反対でしたから、あれも非常に悔しい思いをしている。それで、三度目の正直で、秋田内陸線はなんとかなるかなと思っていたら、これはまあ、なんとかなってるんで、ちょっとは借りは返せたなと思っています。

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◇そういう活動を続けてきてまず思うのは、人の「意識」の部分を変えていかないとダメなんじゃないかと、それが大きいと思いますね。「モビリティマネジメント」という概念も、この間フォーラムで聞いて「ハッ」と思ったんですよね。「目からウロコ」だったんですけど、あれは行政がやっていく「運動」ですよね。交通についての運動も、人の意識を少しずつ変えて行かなきゃならないってことですよね。

交通のことは、もう目先の損得の計算ではダメなんですよね。それなのに、政府は高速道路1000円なんて不公正なことを平気でやっている。あれで鉄道会社やフェリー会社はどれだけのダメージを受けたかってことですよね。民主党なんて高速道路無料化とまで言ってますけど、どうなっちゃうんでしょうかね。

やはり公共交通をどうするかっていう議論をきちんとしていかないと、みんなが知らないうちに、もう大変なことになってきてるわけですから、どんどん、訴えていかないとなあって思います。

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でも例えば「都電を復活」なんて言ったときに「ああ、それは鉄道ファンが言ってるんでしょ」と思われたらもうダメなんですよね。さっきの僕みたいに、「この都電の7000形は・・・」なんて言ってちゃあいけない(笑)。やはり良く言われるように、「まちづくり」の議論のなかでやっていかないと、ダメですよねえ。

・・・難しいんですけど、秋田内陸線の場合は鉄道ファンが存続運動をやり始めたってのは、みんなに判っているわけなんですけれども、ただ「鉄道を残せば良い」という問題ではなくて「地域の問題」なんだということで、いまみんな、いろいろ動き始めているわけですから、やっぱり都会でも、バリアフリーとか、地域をどうするかという観点で考えていけば、運動は拡がっていくと思います。

>>今日は本当にどうもありがとうございました。大穂さんのお話し、面白くて大変勉強になりました(拍手)。(聞き手:都電網研究会)

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都電網研究会インタビュー#1

竹田順一さん 
(NPO法人 横浜にLRTを走らせる会 監事)
2006年11月3日 渋谷にて

◇練馬に住みだしたのが昭和20年で、当時は板橋区の一部だったんだけど、あのあとすぐ練馬区ができたんだよね。

都電の17番というのは、池袋の西武の前から護国寺を経て数寄屋橋まで。当時はまだ丸ノ内線が開通していない時代で、有楽町まで山手線でパッと廻れば行けないことはないんだけど、あんまり山手線に乗る発想もなくて、何となく手軽な乗り物として、結構良く利用したんですよ。数寄屋橋が終点なので、銀座行くにしてもどこ行くにしても、よく乗りました。

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私は当時は中学生だったから、その分際で都心にひとりでなんかで出ることはあまりなくて、母親に連れられてっていうケースが多かったんだけど、母親が簡単に手軽に乗れるものだというんで、よくついていって、乗りましたね。当時から車内はガラガラってことはなくて、結構混んでた印象がありますね。

池袋から数寄屋橋には、まあ30分じゃあ行かないよね、1時間近くかかったのかも知れないけど、立ったままでも、車窓に映る街並みを眺めながら、それもゆっくりした速度で行ってくれるもんだから、これは子供心に楽しかったねえ。

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銀座に行くと写真にもありますように、あの四丁目を中心にして晴海通りと銀座通りの交差する一番の中心街で、そこで前後左右にそういう乗り物がね、目に見えて動いているから、新橋に行くとか、上野に行くとかでもわりと、乗るのにいろいろ考えないで、手軽に利用させてもらったという思い出はありますよ。

都電のなかで、印象に残ってるのが三か所あってね。まず17番・・・それに、銀座四丁目を通る電車、三田の方から1番の電車が来るんですよね。それから上野の駅前。西郷さんの銅像を前にして、ここから銀座に行けるんだとか、こっからこっちへ行けるんだとか。上野ってのは・・・当時は、集団就職の列車の終着駅が上野なわけですよね。

私も地方の出だから、そういう意味では身近に感じる部分があって、上野に来てみれば、ああ、この電車なら銀座に行けるんだとか、そういう部分で上野でも「銀座」っていうのは身近に感じられたってのはね、印象に残ってますよ(笑)。

上野って、駅前からちょっとカーブして、西郷さんの銅像の下を通って行くわけですから、コレに乗ってね、ああ、これから銀座に行くんだっていう、そういう印象がすごく残ってまして(笑)上野の駅舎なんか今までずっと変わらないでいるけど、そんななかで、都電という交通機関としての「目に見える便利さ」っていうかな(笑)、すごく感じられたものですね。

特に、昼間も良いんですけど,夜になるとね、当時は今の風景よりはかなり明かりの少ない感じでしたから、都電の灯りってものは、いわば動く道標としてね、あっちが銀座だこっちが池袋だというような、そういう感じがしました。そういう意味では池袋、銀座、上野ってのは都電の思いでの三大拠点として私の中にありますね。

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私は3年、仕事場を銀座四丁目にもった時代があるんですよ。昭和37年ですけどね。そのころは、この写真にあるように、和光から三菱のビルと、こっちが森永の地球儀ね。もうひとつの都電の思い出は晴海通りを走っている、何番の電車だったかな、勝鬨橋を渡るってのが印象にあるんですね。私の友達が築地のちょっと向こうのほうにいたもんだから、よく行ったんですが、勝鬨橋は昔はある時間になると、船が通るとき開いて戸が閉まる・・・その間はストップする・・・で、そこを電車が通るっていうね。今思うと考えられないよね(笑)。

>>今は、勝鬨橋をまた上げる集まりもあるということですよね。

◇ああ、ありますね。それは聞いてますねえ・・・小学校5年のころ、修学旅行が勝鬨橋ってのがあったしなあ(笑)実現するかなあ。

銀座の四丁目も、今でこそ朝から晩までラッシュみたいだけど、私はたまたま12月31日に会社の宿直をやったことがあるんですよ。これは宿直当番制度ってのがあってね。で、元旦の朝6時か7時頃、家に帰るんですよ。そのときにね、本当に銀座ってこんなに人がいなかったかな、って・・・そこを電車を走ってるってのがね。これまた、何にもないところをただ、カタカタ、カタカタとほとんど乗客も乗ってないで動いてるのがね。それを見て、なんだか「それでも、社会は動いているんだなあ」っていうね、感慨を持ちましたねえ。

>>それから間もなくして、都電の撤去が始まりましたね。

◇そう、都電の場合は第1次から6次までかな、少しづつ廃線になっていきましたよね。

>>でも今結局、オリンピック誘致も絡んで、銀座通りでももう一度都電を走らせようかっていう話も出てるみたいですね。

◇今、銀座は2つのものがあるんでしょうね。あのまちを再開発・再活性化するっていうなかで、ひとつは、六本木や汐留のような近代的な大規模再開発をやろういう意見と、もうひとつは旧来の銀座の街を保存して・・・実際に松坂屋を立て直そうというのに異論がでたりって話もあるんだけど・・・やはり銀座通りを昔の柳の並木だったり、藤山一郎なんかが歌っていたような昔の情緒を残していこうというね。

今銀座ってブティックがすごいでしょ。みゆき通りのほうかな、ああいうのは銀座の象徴だし、ああいう店って、お客さんが3階以上までなかなか上がってこない(笑)、イタリアやフランスでもそうなんじゃない?だから変に高層のビルができるよりも、高さを抑えて、スッキリしたまち並みにして、路面電車が走ってて、ブランド街や昔ながらの老舗が並んでいるというのが、本当は良いんでしょうね。

そういう意味で日本橋も今2つあるでしょ。高速道路を地下に潜らせるというのと、三井さんを中心にあそこでまた、すごい再開発をやるというのと。それらをどう調和させていくかっていうのがあるんだよね。

そういう中で、都市として交通機関はどうあるべきかっていうのは、日本の都市はあまり考えてこなかったよね。横浜もそうだけど。まちづくりの長期ヴィジョンをどうしていくかってことでは、イタリアなんかはもう、日本とは較べものにならないよね。建物の内装は変えても、外観は絶対いじらせないっていうよね、向こうは・・・そうやってまちの美観をきちんと、法律的にやる手もあるんだけど、観光のまちであったり、庶民の買い物のまちであったり、そうするとトランジットモールって発想も出てくるんだろうと思うけど、そういったことの整理がないと、路面電車をもう一回通しても、また「交通のジャマ」だなんて(笑)オチになるんじゃないかなんてね。考えますね。

>>旧いものと新しいものの調和というのは、路面電車の復活でも大きなテーマですね。

◇例えばね、この前ポルトガルのリスボンに行ったときも、次世代型の最新の路面電車も走ってるんだけど、28番っていう路線があってね。沿線のまち並みも旧いし、車両もポール集電式で、方向転換は運転手がわざわざ電車を降りて、分岐を鉄の棒でもって手で転換したりするっていうすごいレトロな路線があるんだよね。7

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わりと遠距離の路線は最新型の電車が走って、近場の下町のバイシャ地区を走るのが旧式の28番なんだけど、これが結構観光客で満員なんだね。下手すると、目の前の電車に乗れないくらいですよ(笑)。僕の見た所だと観光客が9割近いんじゃないかな。それと坂が多いから、上と下でケーブルカーが3路線あるんですよ。それで、まあ乗ってる時間はせいぜい3分くらいですよ。うち1路線は工事中で運行してなかったけど、川に近い下の路線と、上の方の路線と、距離にしたら300から500mくらいあるのかな。そのケーブルのところを車も走るんですよ。それは殆ど地元の人ですね。庶民の足としてはこれも欠かせない。

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2こういうケーブルカーの発想というのも・・・僕は日本のケーブルカーしか知らなかったんだけど、まちなかの交通手段だというのが新鮮だったね。1.2ユーロで、運転間隔は15分かな。

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もうひとつ、リスボン郊外にナザレっていう、歴史的な場所があるんだけど、これも大西洋の海辺の町と、山の上に町があって、そこを往復するケーブルカーがあって、それなんかは自転車もデッキに積んで走るんだね。自転車ごと乗り降りできる。それはかなり急勾配で、運転が15分間隔、乗ってせいぜい5分くらいだったけれど、乗客は殆ど地元の人だったね。

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◇これは、1963年に名古屋に駐在していて、お祭りを見に行った時にたまたま撮ったんですよ。今の都電なんか、混んでいるから花電車なんかきたら「何だ、乗せろよ」なんて文句が来ちゃうだろうけど、イベントとしては良いんじゃないですか?こういうのも、あったら楽しいものですよね。

今度横浜の市バスの廃止の問題があるでしょ。あれもね、会(横浜にLRTを走らせる会)で市長に意見書を出すことにしているんだけど、僕は、公営の交通が、赤字になったら一切やらないというのは、おかしいと思うんだよね。だったら、ゴミ収集や下水道が赤字になったら、一切やらないの?という話ですよ。公共の意味を間違えたら困るんだけど、今の都市整備のなかでも必要最小限のところは、税金を使うべきでしょう。赤字垂れ流しで良いというのは論外にしてもさ。交通の赤字一切ダメ!ってのも、極端だよね(笑)。

それと今も、交通行政についてのいろいろな諮問会議とか有識者会議とか、あるんだけど、利用者の視点は大切ですよね。(交通は)生活の一部分として、欠かせない大事な部分なんだから、利用者の声というのがどう事業に反映されていくかってことが、すごく大事なことだと思いますね。

そうすると路面電車ってのは、やはり単一の路線だけではあんまり意味がないのかもしれない。やはり昔の東京みたいに四方八方にネットが張り巡らされて価値が出て来ると思えるんだよね。何度も海外に行ったことがあるけど、思うのは、そのまちで線路があると方向とか方角が掴みやすいんだよね。バスは詳しい路線図があってもわかりにくい(笑)。

それとゾーン制の運賃と信用乗車が便利なんだよね。たまに検札があって、切符を持っていないと運賃の何十倍もの罰金を課せられるというね。でも殆ど検札に遭ったことはないけど・・・それに、信号の無い横断歩道で待っていても、自動車が停まってくれたりするんだよね。そういう社会を作って行くっていうのは、これからの日本でも大事なんじゃないかな。

>>なるほど、切符の制度を変えるということは、単に運賃の問題じゃなくて、社会を変えて行く、作って行くってことでもありますよね。交通全般の制度でも同じようなことが言えますね。今日はどうもありがとうございました。(聞き手:都電網研究会)

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