都電網研究会インタビュー#4

根津のまちを歩いていたときのこと、上野動物園に程近い、池之端(いけのはた)で店頭に都電の写真を掲げている写真館を偶然「発見」しました。後日に、その写真館「志田フォト」の店主、志田英雄さんと奥様の伊久代さん、そして志田さんの都電写真仲間である関口さんに、都電についてのお話しを伺うことができました。以下、その模様をお伝えします。
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昔日の池之端七軒町(しちけんちょう)界隈
志田英雄さん(以下H):
私は、昭和3年の3月7日生まれなのですが、生まれた場所はまさにここ(写真館)の裏でしてね。その頃の昭和4年あたりは、父はここで書画などの骨董品を扱う店をやっていました。母は理容学校の経営をしていて、弟子の中に山野愛子さんがいました。ウチに勉強しに来た後、江東区にお店を出されたようです。

市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 (しのばずのいけ)の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。

>>この近辺は結構、小川が多く流れていたのですね。

H:
そう、その頃はもうなくなってしまったけど、この裏通りにも「藍染(あいぞめ)川」という川が流れていて、そこを市電が渡っていました。今、都電の保存車が置いてある所のちょっと先です。

その、小さな橋ですけれど鉄橋、鉄橋って言っていましたが、そこにもドブ川が注いでたんですね。それから不忍池の方へ、今のイソップ橋でも遊んでいましたね。市電と走って競争したりしてね。そんなあたりが、私と都電の出会いということです。

ちょうどウチの前が、市電の池之端七軒町停留場でした。当時は安全地帯もなかったんです。だから、地面から直接、電車のステップをよじ昇っていました。 この店のすぐそこに停留場の柱がありましたよ。

トロリーバスとのギャップは!?
関口圭一さん(以下K):
そう言えば、都電は昭和20年代後半くらいまではいわゆる「ポール集電」でしたね。それから、ビューゲルから電気をとるようになってきたのは昭和27~8年あたりです。昔の写真を順繰りに見ると、昭和30年代にはほぼ「ビューゲル集電」に切り替わっていましたね。

>>トロリーバスも、都電とともに不忍通りを走っていた時代がありましたね。

H:
トロリーバスは電気を通す架線が2本線、都電は1本線で、トロリーバスは不忍通りを真っ直ぐ、都電の軌道はそこの角(上野七軒町)で上野公園の方へ曲がっていました。

ところが、その分岐点で電線の交差する所に絶縁体があって、赤信号などで電車がちょうど絶縁体のところで停まってしまうと、 そこからは自力で発車できなくなるんです。そういうときは、「ちょっと押して下さい」と呼ばれてね、押す距離は絶縁体の部分だけなので、そう大仕事というわけでもなかったですから、押すのを手伝ったりしました。

>>そういうハプニングもあったんですね。

H:
ありましたね。都電が発車できなくなることはそんなに多くはなかったですが、 何度かありましたよ。そんなときは呼ばれて・・・一人じゃあ無理だけど、何人かでね。

志田少年の都電(市電)通学風景
>>志田さんがよく利用されていたのは、どの区間になりますか。

H:
20番を良く利用していましたね。20番で須田町あたりまで。そのとき私は都立工芸高校に通っていたので、須田町手前で乗り換えて水道橋まで、あとは37番で日比谷、三田行きですね。反対方面では時偶、20番の池袋行きというのがありました。
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>>20番は普段は江戸川橋行きですが、護国寺の交差点を曲がらず、直進して池袋に行く電車もありました。

H:
それは臨時の電車なのですが、だいたい時間が決まっていて、池袋行きを利用して池袋や大塚なんかに足を伸ばしました。

K:
当時の路線図を見ると、池袋には本来、17番しか来ないことになっていますが、池袋周辺は電車も混雑するので、補完的に20番の臨時電車(池袋行き)を運行していたのでしょう。

間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われ・・・
>>市電や、その後の都電を利用しての印象的な出来事は、ありましたか。

H:
やはり戦争中ですね。昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられて(笑)。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。

それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。

火花が散って30秒くらいして、急にドドドーッと爆撃機のエンジン音がしてきたと思ったら、すぐにボカーンと後ろで爆発したんですよ。後続の電車に乗っていた人に怪我人が出たと聞いて、うわあ、これは後ろの電車に乗っていたら危なかったなあ、とかね。スパークしたのは私の乗っていた電車で、そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。

>>そんなときでも、市電は運行していたのですか。いやはや、すごい時代ですね。

H:
大空襲ではここ(写真館)のすぐ前まで焼けました。空襲があったのは3月10日ですが、その前日にここのちょうど向かい側が強制疎開が終わって、建物もみんな壊していたんです。それで材木が沢山あったものだから、大八車なんかで不忍池手前の、当時は博覧会の会場なんかによく使われていた広場まで、その材木をみんな運んだんです。

そうしたら、その晩の空襲で焼夷弾が落ちて、材木が燃え広がってきて、七倉稲荷神社も燃えて、その延焼が向かいの強制疎開のところで止まり、ここが焼け残った、なんてことがありました。

>>そんなこともあったのですね。そんな状況から察しますと、大空襲では、不忍通りの市電の軌道も、だいぶやられたのではないですか。

H:
不忍通りの20番はやっぱり、ほとんど不通になりましたね。その後、5月の空襲のときは、千駄木の方にも爆弾が落ちたんです。焼夷弾ではなかったのですが。そのときはここの下の防空壕にましたが、中にいてもズシーン、ズシーンと響いて、翌日になって出てきたら、電信柱に布団なんかが引っかかっていたりしました。どなたかが、亡くなったと聞いて私も危ないところだったと・・・(笑)、何とか切り抜けてきましたね。

関口さんと都電の出会い
>>ものすごいお話しですね。それでは、戦後生まれの関口さんにもお話しを伺いたいと思います。

K:
はい。私は志田さんより遥かに後輩でして、昭和39年の生まれです。私が都電を初めてみたのは、小学校に入る前くらいです。そのころ川崎に住んでいたのですが、千石(籠町:かごまち)に祖父母の家があり、そこへ父の車で行く時に、窓から電車をよく眺めていた、と言う記憶があります。

それが、いつのまにか無くなってしまっていて、小さい子どもなりに不思議に思っていたんです。その電車が都電で、しかも廃止されたのだとはっきり認識したのは、のちの小学校の6年くらいの頃だったと思います。

その頃に、大人向けの鉄道雑誌を読むようになったり、自分でも都電のことを調べるようになったことが、鉄道趣味の世界に入るきっかけでしょうか。その後ブランクは長いですが、20年くらい前に鉄道趣味も再燃して(笑)、趣味的なレベルではありますが活動を続けています。

志田さんと関口さん「年の差タッグ」を組む
K:
志田さんと出会ったのも、13〜4年前になるでしょうか。このそばに根津「ふれあい館(公民館)」があるんですが、そこで 「わたくし達の街」という記録ビデオの上映会が雑誌「谷根千」の方々の主催で開かれたんです。そのときに自分の持っている資料や写真などを持ち込んだことがあり、20番の資料集めは、それがきっかけです。 都電の写真の展示も、写真を自分だけのものにしておくのではなく「まちの記憶」として役立ててもらいたいという思いで、志田さんと始めたのです。
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>>ここでお見せいただいている写真では、車両の系統番号表示を見ると20番が多いですね。その頃は20番のほかに、何番の電車が通ってましたか。

H:
20番が主でしたが、他に21番と37番なんかが走っていました。37番は 三田の方まで行ってたのかな。

K:
40番もありましたね。神明町(しんめいちょう)車庫から銀座へ行く系統です。また、神明町車庫と言えば、大昔(大正期)は千駄木にも車庫があったらしいと聞いています。40番は戦前は新橋まで行っていました。昭和42年に銀座の中央通りを経由していた37番、40番が廃止され、そして4年後の昭和46年に20番が廃止、不忍通りから都電は姿を消してしまったんですね。
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当時は「激安」だった市電の料金
H:
都電がまだ市電だった時代は、路線網の端から端まで、同じ料金で行けたんですよ。電車に乗って、車掌さんにどこどこで乗り換える、と言うと「乗換券」をくれましたから、どこまでいっても、何度乗り換えても均一料金だったのではないかと。私も何度かは、市電で遠出したことがありますよ。

K:
現在の都バスの「乗継券」は一回ごとの乗り切り制度のなかで、初乗り料金を半額割引するというものですから、昔の市電における「乗換券」とはだいぶ違いますよね。路面電車も戦後の都電になって、1回の乗車ごとに料金を支払う乗り切り制度になったようです。制度が変わるプロセスについて、正確なことは、東京都交通局の社史に掲載されているとは思います。

>>市電の料金は、いくらだったでしょうか。

H:
私が子どもの頃は、7円という時代が長かった気がします。そのころに、東京の端から端まで乗ったりしたんです。

志田伊久代さん(以下I):
このアルバムにまだ、都電の昔のきっぷや定期券などがとっておいてあります。
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K:
昔の都電の定期というのは、路線図が片面に刷ってあるんです。利用区間のところを赤鉛筆でなぞってあって。

I:
都電は便利でしたね。地下鉄は、乗るだけでも階段の昇り降りが大変ですから。都電だと、停留場に電車が着いていても ちょっとくらいなら乗るまで待ってくれて、それで電車にポンと乗って、銀座でも三田の東京タワーでもすぐに行けました。いま、あちらの方に行こうと思ったら、地下鉄の乗り換えであっちこっち昇ったり降りたりだから、大変ですよ。
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地下鉄千代田線がやってきた。都バスは増えた。都電はもう要らないのか?
K:
不忍通り(一部)の下を通っている地下鉄千代田線は、開通したのが昭和44年です。20番がなくなったのは昭和46年で、2年くらい都電と地下鉄が並存していたときがあったんですね。千代田線の開通祝いの時に20番が不忍通りを走っている写真も、ここにあるはずです。

>>それは見てみたい光景ですね。確かに、東京で地下鉄を深く掘るようになっ たのは千代田線くらいからですね。戦後からの時代、20番の都電はお客さんは多かったのですか。

H:
ええ、かなり混んでましたね。

K:
でも、混んでいたのは江戸川橋に向かって神明町車庫のあたりまでではないでしょうか。商店が立ち並んでいたのは動坂下とか神明町のあたりまでで、当時は、そこから先は民家などが点在している感じだったと思います。今はご存じの通り、マンションや商店が密集しています。
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>>20番の都電と同じところを現在走っている、都バスの「上58系統」も混みますし、便数もほかの路線と比べると多いほうですね。でも確かに、いまでも混むのは護国寺の交差点までで江戸川橋や早稲田まで乗る方は そんなに多くない気がします。

I:
この辺はバスも便利ですが、昔の都電に比べたら待ち時間は長いし、朝夕は混みますから、そんなときはついタクシーを使っちゃいますね。

>>都電がなくなるとなったときは、まちの皆さんはどんな反応だったか、覚えておられますか。

I:
地下鉄ができるという期待の方が大きかったように思います。都電の廃止に反対する人もいなかったのではないですかね。

H:
そのときは、バスがものすごく増えましたしね。そのあとだんだん減ってきて・・・ずいぶん減りましたね(苦笑)。

I:
浅草に都バスで行こうと思っても、今は一時間に1本ですから「めぐりん(台東区のコミュニティバス)」を使いますね。


>>都電がなくなってからの不忍通りは、様子は変わったのでしょうか。

I:車は混むようになりましたが、人通りは少なくなりましたね。昔、私がここへ嫁いできた昭和31年頃は、歩いて通りを渡るのも楽でしたし、車はこんなに混んでいませんでした。不忍通りの道を赤札堂のところまで拡げ、 うちは3メートル通りから下がりましたが、かえって道が通りにくくなったような気がします(笑)。

都電が通っていたときは、もちろん車も通っていて道幅も狭いはずだけど、騒音も少なかった気がします。ここに嫁いできた頃で、通りは人通りが多くてざわざわしていて、夜中でもタクシーが多かったんだけれど、それは気になりませんでした。

>>当時、夜中はタクシーが多かったのですね。

I:
今は、夜中だったらタクシーも通らなくて静かですけどね。


主婦からみた都電、そして根津のまちの変化
>>今でも、根津一丁目交差点の赤札堂のあたりは、賑わいがあるのではないでしょうか。赤札堂の建物は、昔から変わってないようですね。

I:
一階で買い物できるお店が、今はあそこくらいですからね(笑)。それと向かいのマルエツ(スーパー)。あの建物は昔は銀行だったんですよ。もうすぐ道を拡げて高層になるので建て変わると言われています。近所の買い物は不便が出ると思います。二階に上がるのも、ご年配の方は大変だ大変だと言っているくらいですからね。やっぱり一階で何でも買い物ができるというのが、一番良いですね。

あの交差点のあたりは根津銀座、ここもそうですが、昔を思うとすっかり変わってしまいましたね。一番変わったのはバブルのとき。商店街も商売をやめて、お店をマンションに買い取られることが多かった。

>>谷中銀座のほうは、最近ますます賑わっていますね。

I: マンションにしなかったのが、良かったんでしょう。TVや雑誌の取材がすごいのも賑わう理由ですね。私もときどき、メンチカツやコロッケを買いにいくことがあります。


谷根千界隈、今後の期待
>>最後にまちのこれからに向けて何かご希望や、ご期待されることはありますか。

K:
将来に向けては、先ほどの雑誌「谷根千」の森まゆみさんたちの提言として、まちづくりの一環としてこのあたりにもう一度路面電車を敷いたらどうかというお話しが、先日新聞記事に出てましたね。

東京オリンピックも決まり、まちの再開発はこれまで以上に進むと思います。ただこれからは、単純に過去を葬り去るだけでなく、昔の暮らしの良い部分も再び取り入れたまちづくりを進めたいものです。そのようなことのきっかけに路面電車がなれば、それは素晴らしいことだと思います。

I:
根津から先は区画整理が進まなくて「開発が遅れている」と言われていますが、現状は賑わっていますからね。

H:
根津がマンション街になり、商店が少なくなってきて思うのは、子どもたちの通りが少なくなったことですね。また根津の商店街を、小さくても賑やかにしたいですね。
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>>そうですね。お話しは尽きませんが、まちづくりの今後に期待して、今回はひとまずお開きとしたいと思います。 今日は大変貴重なお話しを伺うことができました。どうもありがとうございました。

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都電網研究会インタビュー#3

雨宮敏夫さん(喫茶店「コーヒーハウスあめみや」店主)
2012年7月22日 三ノ輪橋にて

◇私は昭和27年の生まれなんですけれども、そのときからここ(ジョイフル三ノ輪商店街内 コーヒーハウスあめみや)が自分の住居だったんです。都電27系統、ご存知の通り今の荒川線の一部ですが、当時は三ノ輪橋から赤羽までいく電車でして、僕らの子どもの頃、この辺の人は誰もが都電と呼ばず「王電 (おうでん)」と呼んでいました。
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既に東京都が運営してましたから、正しくは都電になっていたわけですけど、この呼び名はそれ以前の「王子電車(註:かつて存在した軌道線の会社)」時代の名残なんですね。ここからすぐそこの梅沢写真館は、かつて王電ビルでして、そこに「王電」と大きく看板が出ていた時代がありましたので、世田谷を走っている「玉電(たまでん:玉川電気軌道)」にも引っかけて、皆「王電、王電」と言ってました。
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子どもの頃は、あらかわ遊園ですとか、昔は三河島の汚水処理場は・・・今の荒川自然公園になりますけど、子どもにとって絶好の遊び場ですから、よく15円の電車賃で、そう、今の都電荒川線に乗って、よく行きましたよ。

◇それから、小学校は地元のところに通っていたんですけれど、中学は越境で、隣の台東区、下谷(したや)というところに下谷中学というのがありまして、そこに通うために、今度は日光街道に出たところの三ノ輪橋電停から、21系統に乗って通学していました。

千住(せんじゅ)から・・・あのころは千住新橋と言ってましたけど、そこから水天宮(すいてんぐう)まで行く電車です。高校は蔵前にあったんですが、今度は31系統というのが三ノ輪橋から東京駅まで出ていまして、それで中学・高校6年間は、ずっと「都電通学」です。それから大学受験云々というときに、都電は「廃線の嵐」という時代になりました。


>> それは昭和45年くらいのことになりますでしょうか?

◇そうですね。昭和45年の3月に高校卒業でしたので、その頃には、もう都電もだいぶ無くなってきているという状況です。その前に、実は三ノ輪にも営団地下鉄の日比谷線が開通してましたので、やはり日比谷線を使って、という方が多くなってましたね。

ですから中学・高校くらいまで、昭和43、4年からぎりぎり5年くらいまでが、都電に乗っていろいろな所に行けた頃です。神田や秋葉原、もちろん上野に行ったり、残念ながら浅草はちょっと離れたところに31系統が走ってまして、合羽橋(かっぱばし)あたりで降りて行くんです。あとは、実はトロリーバスもこの辺を走っていたんですけど、それに乗って日本堤(にほんづつみ)、今戸(いまど)方面に、ちょっと塾通いなんかもしていました。


>> この三ノ輪橋周辺の住民の方は、大きな街へ出るというと・・・もちろんここも街ですけれども(笑)、上野、浅草あたりになるのでしょうか。

◇そうです。ここは江戸時代から東京の外れという(笑)、まあ千住のエリアになりますので、ここから繁華街といいますと、浅草、上野、そして銀座ですので、都電を乗り継いで、ということになりますね。


>> そうしたなかで、地下鉄ができると、地元の方はやはりそちらに流れたのですね。

◇もう、圧倒的でしたね。地下鉄開通はかなりセンセーショナルでしたねえ。地下鉄日比谷線は、東京で3、4番目くらいにできたんでしょうか、確か昭和30年代終盤だったと記憶してるんですが、そのときはかなりの人が都電から日比谷線に移っていったというのは、ありましたねえ。


>> 路面電車は地下鉄ができたことによって、東京の中でも、役割というか位置づけが変わってきたと思うんです。大量輸送は地下鉄に譲ったけれども、その代わり、歩く時に階段などの段差が気になる高齢者や、障がい者、子育て中の方なども気軽に使える交通機関として、また、地域観光などのランドマークとして新しく位置づけられるようになってきていると思います。そうした観点からは、現在の都電荒川線については、どういったことを期待されますか。

◇今の荒川線は、もちろん通勤通学に加え、年配の方のための「足」になっていて、よく利用されているのは事実ですし、また観光用途ということも(東京都)交通局は強く打ち出してます。

この路線は、荒川区の端から端まで・・・南千住地区から尾久(おぐ)地区まで貫いて走っているのは、区民にとって「足」としてありがたい。そしてこの路線は新宿区の早稲田から豊島区、北区と来ていますが、北区の王子を境にして客層も入れ替わって、特に王子から三ノ輪までは荒川区民の10人のうち、1~2人くらいは乗っているんじゃないでしょうか。

王子から先は学校が結構あるので、通学の生徒さんも多いんでしょうけど、飛鳥山や巣鴨のとげ抜き地蔵などもあるので、この区間はどちらかというと観光需要が多いと、私たちは思っております。そうした2つの面がマッチしているのが、今の荒川線の良さじゃないですかね・・・荒川線に観光でお乗りになった方からすれば、まあ一度は、全線を端から端へと乗りたいものじゃないですか。早稲田方面から乗って、王子を過ぎるとガラッと景色も変わりますよね。王子から三ノ輪の方は、本当に庶民の足なんだなあと実感できると思います。
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>> するとお客さんが荒川線に乗って、このジョイフル三ノ輪商店街に買い物に来るような流れは、結構多いのでしょうか。

◇(荒川)区民については結構いらっしゃることと、思います。この商店街が運が良いのは、最寄り電停がターミナルになっていることですね。観光で荒川線に乗車されたお客さんも、いったんは終点で降りますから(笑)。本来は町屋や王子、あるいは庚申塚(こうしんづか)や大塚なんかの方が賑やかですが、この商店街へ観光のお客さんに来ていただけているのは、そういった要素が大きいのではないかと思います。


>> そうしますと、もし荒川線が廃止されたり、ルートを変えるなんていうことがあると、ジョイフル三ノ輪商店街の皆さんは、かなりお困りになるのではないですか。

◇それは非常に困りますねえ・・・本当にそうなるかはわかりませんけど、噂にのぼっている部分では、隣の荒川区役所前のところから明治通りに入って、浅草やスカイツリー方面に荒川線をもっていくって言う話も、浮かんでは消え、浮かんでは消え、を長いこと繰り返しています。ご存知のとおり、この三ノ輪橋から先は、区画のうえでどうやっても先に繋げられないんですよ。それで区役所前からルートを曲げて、と言うカタチになるんだけど、そうなるともう、三ノ輪橋の存在は多分なくなっちゃいますよねえ。
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>> 先ほどお話しに出た、日光街道の21系統、31系統なんですけれども、27系統(現在の荒川線)と同じ、三ノ輪橋という名前の二つの停留場の間で、お客さんの乗り換えはどんな状況だったのでしょう。

◇乗り換えをするお客さんは、すごく多かったんですよ。そこの王電ビルの下をくぐって、停留場の間は50メートルくらいじゃないですか。だから乗り換えは手間というほどでもなかったし、判りやすかったですね。

それから、当時はワンマン運転ではなくて、都電でも車掌さんがいたもんですから・・・車掌さんは皆さん親切な方が多くて、乗り換えの方法ですとか実に親切に教えてくれて、年配の方にも道案内までするんですよね。「どこそこに行きたいんだけど」って言うとすぐ教えてくれましたね。三ノ輪橋の乗り換えでも「そこから歩けばすぐだよ」なんてね。そういう意味ではソフトの部分で(笑)、実はサービスがすごく充実してたんですよ。子どもの僕なんかが乗ってても「おいどこまで行くんだい」なんて・・・


>> もう向こうから聞いてきてくれるんですね。

◇そう、全区間均一料金だから、一度きっぷさえ買えばどこで降りようが構わない、ということもあるんでしょうけどね。すごく混雑していても運転士さんや車掌さんが「次の停留場で降りるんだよ」なんて奥の方から声をかけてきてくれる。そういう人情味っていうのが、非常にありましたね。こと乗り継ぎとか、意外とスムーズにいってたっていうのは、そういう要因も大きいと思うんですよね。

◇(都電の)サイドボードには路線の経由地が書いてあるけど、大まかにしか書いてないんで、運転士さん車掌さんに、例えば「この電車、菊屋橋まで行く?」って聞くと「菊屋橋行きますよ、いくつめで降りて下さい」なんて返ってくるとか、菊屋橋が近づけば、車掌さんが大きな声で「次は菊屋橋~」って言ってくれたりで、まあ、下町だけではないですけど、庶民の足として、暖かみのある乗り物でしたね。まあ、あの時代はバスも国鉄もそんな感じでしたね。今は荒川線も都バスもワンマンですし、案内も自動音声になってますから、交通機関にそこまでのサービスは、求められないんじゃないかと思いますけどね。


>> ただ、例えば現在の東急世田谷線では、ワンマン運転にはなったのですが、日中は女性の「車内アテンダント(案内係)」、早朝や夜間は男性の「ガードマン」が代わりに乗務しています。高齢者や障がい者などの方に、乗り降りの手伝いやちょっとした道案内などをしているとのことです。あれがやはり好評のようですね。

◇ええ、案内係ですね。世田谷線はそうなってますねえ。ああいったサービスは、特に公共交通に慣れてない方には、良いんじゃないかと思いますね。


>> そういうことでは、都電荒川線では、乗客同士で声を掛け合ったりなどはよくありますね。

◇そうそう(笑)。隣に座っている、全然知らないおばあちゃんが話しかけてきたりとか。僕なんかも若い人たちがどこで降りようか、迷っている会話なんか聞こえたら「それはドコソコで降りますよ」なんて言っちゃいます。そういう部分では、かつての都電の人情味とでも言いますか、そのようなものは若干残っているかもしれませんね。

◇もう10年前くらい前になりますか、一時、荒川線に「一球さん号」という、昔の都電で走っていた車両を土日に保存運転していたときに、やはり車掌さんが乗ってらして・・・あのスタイルは、やっぱりいいですね。もちろん人件費の問題もあって、なかなか難しいとは思うのですが、車掌さんが乗る・乗らないってのは、全然比べ物にならないですね。ワンマン電車で、まさか運転中に運転士さんに話しかけるわけにはいかないじゃないですか。 やはり車掌さんがいる電車が、僕は好きですね。


>> 話を少し戻すようですが、地域社会のつながりや、まちづくりの観点でも路面電車の存在は昔から大きかったんですね。

◇旅行なんかで、北海道から九州まで路面電車はひと通り全部乗りましたが、昔の部分で言うと、仙台の市電が好きでして、これはまちと電車がよく合っているというのか、そんなところが良かったですね。それから、今も走っているところでは函館市電ですね。

ヨーロッパの路面電車も旅行でずいぶん乗りましたけど、ヨーロッパは旧市街の旧いまち並みを守っていて、建物を壊して道を広げるということはしないようですが、東京の場合・・・この辺もそうですけど・・・道路拡張、区画整理のために家やまち並みをどんどん潰してしまってと、やっていますけど、東京でもそういうのだけが本当のまちづくりなのかなあと疑問に思うんですよね。

◇日本式のやり方では、まちはきれいになりますけど、旧き良きものは全部無くなってしまうんですよね。日本の旧いまちとヨーロッパの旧いまちとは木造と石造りの違いがある、と言ってしまえばそれまでかもしれませんけど。

でもヨーロッパなんかは旧市街地は道幅の狭いまま、まち並みを残して、不要不急の自動車交通は郊外の駐車場に停めてもらって、そこからお客さんは路面電車で旧市街に入ってきてもらってと、考え方がずいぶん日本と違いますね。

三ノ輪が特別に旧いまちというわけではないですが、京都なんか、歴史あるまちですよね。ああいった、ヨーロッパみたいなやりかたはできないかと。でも、このままいくと、日本で旧き良きまちなみは残らないんじゃないかと思うんですよね。


>> まち並み保存は日本だと何か特別なことのように考えられがちですが、ヨーロッパでは至極当然のこととなっていますね。

◇そう、まち並みを保存するって意味では、絶対的に・・・僕は路面電車ってのは、絶好の活躍の場だと思うんですよね。


>> そうしますと、都電の復活について、期待する将来像なども雨宮さん自身お持ちなのでしょうか。

◇この前、広島に用があって行った時に、素晴らしい路線網と新型の路面電車に乗って、それから富山にも行ってきたんですね。富山の路面電車もあれだけ素晴らしい新車が入って、東京でもああいうことにならないかと思いますね。ただ、東京都はどちらかというと、力を入れているのは地下鉄の方だと思うんです。

そこで「地域」と特別行政区の頑張りで、路線を広げていけないかと・・・コミュニティバスを走らせることは、荒川区でもどこでもできていますので、さらに路面電車を走らせられないかと考えるのですが・・・豊島区・中央区や、なかなか具体化していかないけど台東区といった「動き」のある区で、今まさに試行錯誤をしているところなんでしょうけどね。

◇それと、都電荒川線の池袋延伸は、三ノ輪橋からの延伸より何より、まず一番に実現してもらいたいですね。池袋東口からサンシャインシティまでのループ線の案もあるけれども、東池袋四丁目から延ばすだけでかなり便利になるんじゃないですか。

こちら(三ノ輪橋)側の延伸については、行き先で本当にインパクトがあるのは浅草だと思うんですよね。国際通りなんか、道幅のわりには自動車の交通量が少ないですから、可能性はあると思います。

また、入谷から高速道路の下、上野から秋葉原にかけて昭和通りを通すという案も可能性はなくはない。入谷が首都高の降り口になっていて、ネックにはなると思いますが、首都高をちょっと延ばしてネックが解消されれば、あとはそんなに費用をかけなくてもできそうなので、いい方法だろうと思いますね。

お隣の北区では、王子からかつての赤羽までの路線や、現状では道幅が狭いところがあり難しいとは思いますが、豊島五丁目団地までの路線なんかは検討してもらいたいですね。現在、都バスが走ってますが、年配の方にはきついでしょう。このままあと10年も経ったら沿線住民の高齢化が進んで「足の確保」の問題はもっと出てきますしね。

そういった、個々の路線を各区で実現して、それから区を跨いだかたちでつなげていければ、と思います。ただそれには、人やお金のエネルギーが相当必要になってくるし、簡単ではないですね(笑)。(荒川)区長も言うことですけど、最も重要なのは住民のパワーなんですよね。
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>> そういう意味では、荒川区では以前「荒川区のシンボルは何か」というようなアンケートを実施して、回答数1位になったのが都電荒川線だったということがありましたね。

◇いやもう、今でもナンバーワンですよ(笑)。荒川区を縦断していますし、住民にとっては、ありとあらゆる面で荒川線の存在は大きいです。ここの商店街でも、常にナンバーワンで出てくるのは都電荒川線ですよ。


>> そうですよね。荒川線から再び、都電の良さを市民的に広めていけたらと思います。今日はいろいろなお話しを、どうもありがとうございました。
(聞き手と写真:都電網研究会)


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都電網研究会インタビュー#2

大穂耕一郎さん(小学校教諭)
2009年5月29日 飯田橋にて

◇僕のいま住んでいるところは八王子市なんですが、実家が文京区小日向(こひなた)というところにありまして、昔は、家からちょっと歩くともう、「電車通り」でした。それから、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷(みょうがだに)駅が、歩いて10分のところにありましたので、都電と丸ノ内線に囲まれて育った、というところです。僕は1954年、昭和29年生まれで、丸ノ内線の開業より1週間だかそこら、僕の方が誕生が早いんですね、そういう世代です。

都電は、子供の頃から沢山乗ってたんです。身近な交通機関ですし、僕は乗り物が大好きでしたので・・・その辺のことは、ここ(ネコ・パブリッシング刊「国鉄時代」連載「空とレールの間には」第1号)にも書いてあります。「都電見物未遂事件」「都電タダ乗り事件」とか(笑)、こういったことで、親しんできました。

ただ、小さい時は写真を撮るということがほとんどなかったんで、中学に上がるまでの都電の写真というのはないんですよね。それが今になっても本当に残念です。僕はよく、須田町の交差点で、(運転系統)1番の「5500形」っていう・・・いわゆる「PCCカー」ですか、あのスタイルの電車を見て、「オオッ、スゴいなあ、こんな都電もあるのか」なんて驚いた記憶があります。須田町のあたりは交通博物館とか、良く行ってましたんで、その頃の写真がないのが非常に残念です。

それで、僕が写真を撮り始めたのが、1968年の10月くらいですなんですね。ちょうど時代的には・・・鉄道史ですけど東北本線の盛岡〜青森間が電化開業、というあたりで撮り始めたんです。近くの都電も、高校に入ると撮るようになりました。高校は小石川高校でしたので、近くの江戸川橋から都電の20番というのに乗って、千石(せんごく)一丁目まで、毎日通ってました。

>>音羽(おとわ)通り、不忍(しのばず)通りですね。

◇そうです。護国寺から大塚三丁目から、氷川下を通ってと、2年間続いたんですけど、2年生の終わりに都電が廃止されまして、それから一度だけ、代替バスには乗ったんですけど、それがすごく嫌で・・・それから1年間、もう歩いて学校に通いましたよ(笑)。まあ歩いても30分くらいで、大したことはなかったんですけど。

>>バスでは、なぜ嫌だったんですか?

 

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◇何だかね、いくら学校に行くためとは言え「代替」バスに乗るというのは、何だか悔しかったんですね。あの頃、これは20番と同じ時に廃止された19番、 場所は駒込駅ですが、こういう「ありがとうございました」の花電車、これは良く見かけました。

家の近くは、15番も走ってたんですよ。都電の15番は高田馬場から、早稲田、江戸川橋、飯田橋、九段下、小川町(おがわまち)のところで曲がって、日本橋に行って茅場町、というので、小さい時は日本橋のデパートへ行くのに15番の電車によく乗りました。

その15番も中学3年のときになくなりました。ただ、そのときはまだね、あまり都電の廃止ということに特別な意識はなかったですね。「アア、なくなっちゃったー」ぐらいだったんですけれども、やっぱり鉄道ファンとしての意識も芽生えちゃうと、公共交通である都電が「クルマの邪魔だ」と言われて廃止されていくのは、悔しかったですね。

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◇それで、高校の時は、よくこの20番の「6000形」っていう電車で通ってまして・・・これ皆さんも乗りました?ちょっと前まで、これは走っていましたよね。

>>荒川線で「一球さん号」として、この6000形の保存電車が2002年まで毎週日曜に走っていて、乗ったことがあります。

◇そうですよね。20番は当時「6000形」「7000形」「8000形」が走っていましたねえ。

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◇それから、これが僕の高校ですね。いまは中高一貫校になっちゃって、もうヒドいらしいんですけど(笑)、これが電停で、もう壊されるんで黄色い安全棒みたいなのが立ってますけど・・・1971年3月17日に撮ったんですね。20番の最終日です。

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◇もう一つ、僕のところの近くに走っていたのが16番で、この写真の左側が文京市役所です。春日町の交差点から、真砂坂(まさござか)を登って上野の方に行くところなんですけど、16番は大塚から錦糸町までの路線です。いまは「グリーンライナー」という都バス路線になって、僕はちょっと前にこれに乗ったんですけど・・・久しぶりに乗ったんですよ。僕はいま、八王子在住なんで、こっちの方でバスに乗るってことがなかったもんで、何だか久しぶりに乗って「これって16番の代替バスじゃないか」って、そのときは思い出があって悔しいのもあって、何だか涙が出てちゃってね。「この路線、何で都電じゃないんだよ」っていう、そういう心境ですねえ・・・

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◇これは20番の、上野動物園前ですね。奥の歩道橋の向こう側がモノレールですね。ここの風景がすごく好きで、通ってましたね。ここの専用軌道の感じが、何だか良かった(笑)。この写真を撮った頃は、上野駅で駅員のアルバイトをやっていて、土曜の夜は泊まりで、日曜の朝に帰ってくるっていうパターンが多くて・・・国鉄の職員パスを貰っていたから、国鉄に乗ればタダだったんですけど、でもわざわざ、上野公園から20番に乗って・・・そうすると、日曜の朝ですと速いんですよ、電車のスピードが。それが楽しくってですね、よく都電に乗って帰りました。

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◇これは須田町です。僕が小さい頃はこのあたりで、お袋がオーダーメイドの洋裁をやっていて、この右側に生地の卸屋さんがあって、そこにしょっちゅう買い物に来てたんです。だから買い物のついでに交通博物館に寄ったり、あとは電車をずっと眺めていましたね。

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◇この写真も須田町ですね。北から南に向かって撮っていますけど、これは19番(王子駅前〜通三丁目(とおりさんちょうめ))の電車ですね。

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◇これも19番、場所は東大前ですね。

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◇これは下町の、錦糸堀車庫の「1500形」っていう古いヤツで、出っ歯みたいなカタチで、個人的に格好はあまり好きではなかったけど、何だかこう、いかにも下町の電車という感じだったんですよ。(場所は)どこかの橋ですけど、どこでしたかね。

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◇ここは三ノ輪橋です。こんな感じだったんですけど、今はどうなっていますか?

>>電停ホームがかさ上げされましたし、軌道の配置も変わっています。雰囲気は結構変わりましたね。

◇でもいま荒川線に乗ると、ホームが狭くて怖い電停がありますよね。そういうところは一列になって待たなくてはいけないし。あれはちょっと何とかならないかなあ。でも、荒川線が残るって決まったときは、感激して友達と見に行きましたよ。飛鳥山の歩道橋の上で、ボーッとなって見てましたからねえ(笑)。

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◇これは荒川線、飛鳥山ですよね。7000形が、ボディを換えてリニューアルした頃です。

>>この電車はいまでも荒川線を走ってますけど、周りのクルマのデザインを見ると隔世の感がありますね。

◇そうですよね、クルマがすごい(笑)。手前のはブルーバードですか・・・奥はトヨエース。そうそう、この頃は(電車の集電装置が)「パンタグラフ」ではなく「ビューゲル」だったんですよね。昔の都電はみんなビューゲルでしたから、終点の停留場に行くと車掌さんが「ヨイショッ!」とワイヤーを引っ張って、ググッとビューゲルの方向が変わって、架線から火花が「バン、バン」って散ってという、そういう光景が見られましたね。

>>この写真の頃、リニューアルした7000形のステップはどうなっていましたか?写真ではステップがないようですけれども。

◇やっぱりヨイショッとよじ登ってたんですよね。当時の都電はみんなヨイショ式で、しかも安全地帯がない電停も多かったんです。僕がよく使っていた石切橋電停(15、39番)も安全地帯がなくて、こう(手を高く上げて)、掴まって「ヨイショ」でしたねえ。それに慣れていたから、公共交通ってそういうものだと思ってたんですよね。当時はバスだって国鉄だってそうでしたものね。

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◇ここは上野動物園前です。この6000形ですけど、20番って、走っている電車のサイズが大きくて、16番とかには6000形は入ってなかったですね。そんなことも憶えています。

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◇これは8000形って言って、いまでも高岡(富山県)の万葉線に、これをちょっと横に引き延ばしたような電車が走っていて、そっくりなんですよね。格好は良いんだけどよく揺れたんですよ、この電車は。だからちょっと安物っていう感じもしました。その前に製造された7000形の方が頑丈だったですね。

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◇これは上野公園ですね。

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◇これが僕の高校の2階から撮った、20番の都電ですね。こんな感じで走ってました。僕は高校のときは鉄道研究会に入ってまして、高校2年の時に都電廃止の話が出て、2年の終わりには廃止されちゃうって言うんで、僕は冗談じゃないって怒ってね。ちょうどこの頃、学園紛争のあったときですから、タテカン(立て看板)書くのは当たり前だったんですね。僕も鉄道研究会で、タテカン立てましてね。「都電から見えるところに立てようぜ」なんて言って「都電廃止絶対反対」なんて書いて(笑)。

>>それは、何年頃のことでしょうか。

◇確か1970年でしたよね、タテカン立てたのは。70年安保とか、ああいう時代でしたから・・・ただこの頃は、千石一丁目で交差する18番はもうなくなってましたね。志村橋の方から来る電車です。

>>ということは、(18番の地下を掘った)地下鉄三田線は・・・

◇ええ、三田線はもう巣鴨まで来てましたよ。高校では、その三田線で通ってくる連中が多かったですね。都電でというのはごく少数派でした。

>>その頃、都電がクルマの渋滞に巻き込まれて、動かなくなってダイヤ?が乱れるということは既にあったのですか?

◇いや、都電にダイヤってありませんでした。僕の感覚でもダイヤってないんです。行き当たりバッタリで、朝同じ時刻に電停に行っても、すぐに電車が来るときもあるし、5分も待たされたりしたこともあったり、都電ってそういうものだと思っていて、まあ、あんまり来ないと「何かあったのかな」って・・・でも、大体すぐに電車が来てましたから、そこは気にならなかったですね。

>>今の荒川線でも、特に日中はダイヤは明確ではないですね。当時、都電の本数は多かったのですね。ただ、所要時間については、クルマに邪魔されて遅延が出たりとか、そういう要因はあったのかな、と思いまして。

◇日曜日の早朝は、確かに速かったですね。子どものときは日曜の朝、親父と魚釣りに良く行ってたんですよね。16番に乗って錦糸町まで、そこから浦安まで行ってたんですけど。僕がよく乗ったのは竹早町(たけはやちょう)の電停で、今の小石川何丁目だったっけ・・・丸ノ内線の車庫の上でしたね。それか、教育大学前。今の茗荷谷駅前ですね。で、そこから乗るでしょ?何かね、スピードが普段と全然違いますよね(笑)。

ダイヤは元々ないわけですから、道が空いてりゃ飛ばすんですよね。もうすごいですよ、(身体を揺すって)こんなに揺れますからね、でも気持ちいいんですよね!錦糸町までね、30分なんてかかってないですよね。とにかく滅茶苦茶速い(笑)。

>>都電にスピードメーターが付いてなかった時代ですよね。

◇そう、スピードメーターなんてない、ない(笑)。まあそんなにスピード出したら危ないですけど、クルマの影響を受けないと、都電も結構な乗り物でしたね。運行に影響を受けたのは、まず交差点の右折車ですね。

この写真だってクルマは片側1車線ですけど、右折のクルマは、この都電の軌道敷の中で待っちゃうんですよね。1台でも右折のクルマがいると、信号が青になってもそのクルマは赤に変わる直前まで、線路のところで停まっているわけですよ。確実に信号1サイクル待たされるという、あれは非常に腹立たしかったですね。

そういう意味で、クルマのちょっとした右折なんかをどうするかっていう施策を打っていれば、また軌道敷にクルマの乗り入れをしなければ、状況はだいぶ違ってましたよね。僕が写真を撮っているのは大体休みの日ですから(笑)、写真ではそんなにクルマが大変なようには見えないですけどね。

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◇ここは大塚三丁目の交差点で、坂を登ってきたところで、左が16番で向こうが20番の電車ですね。

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◇これは16番の7000形で、この電車が好きだったんです。ちょっとマニアックですけど、若番(わかばん:ナンバリングが製造初期のもの)の正面窓の割り付けが3枚になっているのが好きだったんですね。若番じゃないのは2枚窓だったんですけど、僕は3枚窓が好きでした(笑)。

7000形は16番の大塚車庫にいっぱいいたんですけど、この7001号車は7000形の製造第1号ですから、これに当たると一所懸命自転車で先回りしたり、終点で折り返してくるのを待ったりして、写真によく撮りました。

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◇これは13番、新宿から秋葉原、水天宮前(すいてんぐうまえ)までの路線で、すぐそこの、神楽坂を下りてくる路線ですね。これが先になくなったのかなあ。

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◇ここは飯田橋です。歩道橋の上から撮りました。

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◇これは日本橋です。道路元標ですね。ここ、石原知事か誰かが首都高を地下に埋める、って言ってたんだっけ。

>>いや、石原知事ではなくて小泉元首相ですね。石原知事は「日本橋」の名称をどこか近くの橋に移すアイディアだと報道がありました。

◇ええっ?それは信じられないなあ!

>>まあ、確かにその方がお金はかからないんでしょうけど、あのアイディアに賛同の声は殆どなかったですね。


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◇これも日本橋です、この22番は日本橋から南千住まで行ってたんですよね。

>>人が待っているのは電停のホームですね?

◇はい、安全地帯です。面積はほんのちょっとですねえ。このやり方はやっぱり怖いですよね。

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◇これも日本橋の交差点ですね。このね、クロッシング(軌道の交差部分)は、昔はあちこちにありましたが、渡る時の独特の揺れと音があるんですね。縦揺れで、「ダン、ダン、ダン、ダン、ダン、ダン・・・」とね、8回音が鳴るんです。これは身体で憶えてますね。この38番の電車は江東区の東陽町から砂町、亀戸(かめいど)を廻って、錦糸堀まで行ってました。

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◇これは東陽町の先の専用軌道のところ。奥にガードで横切っているのは小名木川(おなぎがわ)の貨物線ですね。

>>いまは緑道公園になっているところですね。


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◇大島(おおじま)一丁目ですね。こんな土の上も走っていたのは、いま考えてみるとスゴいことですよね。

>>この辺りは以前、研究会で何度か歩いたことがありますよ。いまはもうアスファルトとコンクリートで、どこもすべてキレイに舗装されてますね。いま遊歩道になっているあたりですかね?

◇そう、砂町までは道路上を走っていて、この辺から道を斜めに入って行くんですよね。

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◇これは江東区の竪川(たてかわ)と言うところの橋ですね。都電の専用橋ですけど、こんな感じのところもありました。この次の電停は水神森(すいじんもり)で、その次が亀戸・・・というルートですね。

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◇で、こういう看板がどこの停留所にでもあってですね、これが全盛期の都電の地図なのかな。どこそこへ何分で行けるかが、書いてあるんですよね。

>>備考欄が面白いですね。

◇「早朝ないし夜間は1割から2割時分が短縮」・・・いやもっと短縮してましたよ。ヘタすると5割とか(笑)。

>>所要時間のみということは、何時何分に電車が来るというような、ダイヤみたいなものは、全くなかったんですね。

◇運転士がダイヤ見ているのは、見たことないですよ。

>>職員の運用はあって、何系統に電車を何台、運転士さんや車掌さんを何人出す、というのがアバウトにあったかもしれないですね。

◇そう、そんな感じでしょうね。行き先なんかも、例えば20番なら、千石一丁目から上野の方に行くとすると、上野広小路止まりがあって、須田町止まりがあって、あと20番は神明町(しんめいちょう)に車庫があったんですけど、神明町車庫から日本橋の通三丁目、銀座の手前ですね、そこ止まりもありました。もっと昔は銀座まで行っていて、その系統は40番と呼ばれてましたね。あとはたまに、20番が池袋に入ってましたよ。

>>池袋は本来、17番の系統ですね。

◇そうなんです。それが来ると「ああ、家に帰れないじゃないか、何で池袋行きなんだ」なんてガッカリしたりね。ちょっと歩きゃ良いので、大したことなかったんですけどね。まあいろいろありましたけど、時刻表があって、「次は池袋行きが来るから待っていよう」なんて、そんなようなのは何にもないんですからね。いま考えてみれば、ずいぶん不親切な話ですよね(笑)。

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◇これはね、隅田川の新大橋です、昔のトラス式のね。

>>僕は昔のデザインの方が好きですねえ、重厚感があって。いまのは斜張橋で、どうも存在感が薄いというか・・・まあ昔のはこう造らないと、橋を支えられなかったんでしょうがね。

◇当時もいつもこのくらい、道路が空いていれば良かったんでしょうけどね。とにかく僕が写真を撮っているのは、大体が日曜の朝ですから。都電で行ったり、自転車で行ったり・・・

>>影に長さがあるので、いかにも早朝の写真という感じが出てますよね。


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◇これは、錦糸町駅前ですね。で、左の高架は総武線の線路なんですよ。この頃はもう、20番とか16番が廃止されちゃって、それでもしょうがなくって、高校3年生のときはこっちまで撮りにきていたんですけど。この電車は7000形の若番だから、廃止された16番から転属したってことですね。

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◇あっ、これなんか日本橋の看板が写ってる・・・これが7000形の、多数あった2枚窓のヤツですね。これはあんまり好きじゃなかったけど、撮りました(笑)。

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◇上野広小路です。24番っていうのは、須田町から柳島、福神橋まで行ってましたね。浅草から吾妻橋を渡っていたかなあ。それで、都電が5両も写ってて、16番なんかがクロスしていたんですね。写真を撮っていて、なかなか面白いところでした。ただこの写真の時点では、16番はもう廃止になっていました。

>>第24系統は、最後まで残っていましたね。

◇そうですね、24番はあとまで残っていましたね。

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◇20番の6100号の電車は、僕は一番好きだったですね。これに乗れると「ああ、今日は運が良いぞ」なんてね。何だか最近、女子高生なんかの間で、この電車に乗れると運が良いなんて、そんな話を富山の子がしてるって聞いたんですけど・・・

>>富山ライトレールの「ポートラム」ですね。あれの赤い色の電車でしたっけ。

◇ああ、そうだ(笑)。当時の僕にとっては、それが6100号なんですね。好きな番号だったんです。

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◇これはお茶(の水)大前ですね、大塚二丁目。こんな、雨の写真です。

>>反対側の電車は、向こう側に停まるんですか?それとも手前にですか?

◇いや、向こう側に停まります。

>>電停の施設は、ただラインが引いてあるだけなんですね。

◇電車が来るとこの囲みに、人がトコトコ歩いて来るんですよ。いま考えるとこれは危ないですよね。電停に人がいるときは、クルマは停まらなくちゃいけないことになっていたけどねえ・・・

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◇これは大塚三丁目で折り返す電車で、こういうのもあったんです。これから神明町、上野の方に折り返して行くんだけど、そのために「渡り線」が通してありますよね。

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◇これも大塚三丁目です。

>>後ろの都バスに、都電のような「系統板」が付いているのが、珍しいですね。

◇ああ、このバスね。この塗り分けは美濃部都政のときの、白とブルーのカラーでしたね。そのあとの鈴木都政の時、美濃部とは違う色にするってんで山吹色と赤の塗り分けにしたら、「ケバケバしい」って苦情がいっぱい来ちゃったというね(笑)。

>>ああ、それは憶えがありますねえ。一応、都電のカラースキームなんですけどね。冷房車を導入したので判りやすいようにって狙いもあったようですけど。あんまり評判が悪くて結局、いまの緑色に塗り替えちゃった(笑)。


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◇これは教育大前ですね。いまでは茗荷谷駅前というバス停になっています。昔は「茗荷谷」よりは東京教育大があったから「教育大前」の方が通りが良かったですね。

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◇これが最後のときです。さっきの大塚三丁目ですけど、16番のお別れでね。人がワーッと、カメラ持って集まりましたね。

このときの僕のカメラっていうのは、ピントも露出もシャッタースピードも「全手動」ですから。露出計も持っていなかったんで、全部自分で見当を付けて。これでもコントラストはつけたつもりなんですけど、でもやっぱりダメですね。

>>16番の廃止は、特に乗り物ファンではない人にも、かなり惜しまれたんですか。

◇やっぱり何だか、みんなワーッと来てましたよ。「これだけの人が最初から乗っていれば、廃止にならなかったのに」とも思いましたよ。だから、そのときは何だか腹が立ったり、複雑でしたね(笑)。

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◇これ、浅草です。後ろが東武のデパートですからね。こうやって並べると、いろいろ撮ったんだなあと思いますね。

 

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◇これは錦糸堀です。都電の後ろにクルマがドドドッと繋がっているでしょ。クルマが軌道敷まで入ってきている。ラッシュアワーだとこれがもっと酷くなる。これがなければ、まったく状況は違うわけですよね。当時、酷いときは「ダンゴ運転」が続いていましたが、やっぱり定間隔で運行できたでしょうね。そういう意味では本当に「悔しいな」と思いますね。

>>少なくとも、軌道敷の1車線分だけクルマが入らないようにすれば、都電は生き残れたということですね。

◇そうだと思いますね。例えば広島なんか、軌道敷の自動車乗り入れ禁止策をとって、路面電車を残しているわけですよね。都電の軌道敷にクルマを入れたのが、1959年だったかなあ。あれがそもそもの間違いだと思います。それから、都電はもう古いっていうイメージの問題もあったけれど・・・確かに古い車両は多かったし、右折の信号でいちいち停まって遅いというのも、定着してしまってたんですけれどもね。

だから、僕は高校の鉄研で、交通局に申し入れに行ったんですよ。申し入れと言っても、まあ「廃止の前にとにかく文句だけは言っておこうぜ」という感じでしたけど、行ったら、「クルマの邪魔になりますから」と、こうですからね(苦笑)。交通局の人間がそんなことを言っているんですからね、「何だこりゃ」って帰ってきましたけど。

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◇この蒸気機関車の写真ですけど、これは場所は木曽、都電20番が廃止されたちょっとあとの写真です。蒸気機関車がまだ走っているような時代に、都電はもう廃止されて行った、そんなことが言いたかったんです。

こちらの研究会の皆さんは、また新しく都電を敷きたいという意欲も持っておられるとのことですが、今度都電が池袋に乗り入れるような話も聞きますし、そういう条件の整った場所を、荒川線の軌道敷をベースにして展開できれば、良いんじゃないですかねえ。

でも、いまの荒川線も、この間久しぶりに熊野前から町屋へ乗ったときに、安全地帯が狭いっていうのを痛感して「あれえ?」なんて・・・いや、それでも新しくなったときは良かったなと思ったんですよね。これはすごいと思ったんだけれども、いまでは、やっぱり「狭い」し「混み過ぎ」ですよねえ。乗車機会の問題というか、稼ぎたい時に電車の本数を出せないというのは、お客さんをむざむざ、逃がしちゃってる気がします。

まあ、それで昔の都電の問題というのは、僕が鉄道を通して世の中に何か訴えようという契機になった問題なんです。いま、僕は秋田内陸線というローカル線のサポーターをずっとやってますけど、都電の時に悔しい思いをしているわけです。それから国鉄の分割民営化のときも、僕はあのやり方は反対でしたから、あれも非常に悔しい思いをしている。それで、三度目の正直で、秋田内陸線はなんとかなるかなと思っていたら、これはまあ、なんとかなってるんで、ちょっとは借りは返せたなと思っています。

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◇そういう活動を続けてきてまず思うのは、人の「意識」の部分を変えていかないとダメなんじゃないかと、それが大きいと思いますね。「モビリティマネジメント」という概念も、この間フォーラムで聞いて「ハッ」と思ったんですよね。「目からウロコ」だったんですけど、あれは行政がやっていく「運動」ですよね。交通についての運動も、人の意識を少しずつ変えて行かなきゃならないってことですよね。

交通のことは、もう目先の損得の計算ではダメなんですよね。それなのに、政府は高速道路1000円なんて不公正なことを平気でやっている。あれで鉄道会社やフェリー会社はどれだけのダメージを受けたかってことですよね。民主党なんて高速道路無料化とまで言ってますけど、どうなっちゃうんでしょうかね。

やはり公共交通をどうするかっていう議論をきちんとしていかないと、みんなが知らないうちに、もう大変なことになってきてるわけですから、どんどん、訴えていかないとなあって思います。

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でも例えば「都電を復活」なんて言ったときに「ああ、それは鉄道ファンが言ってるんでしょ」と思われたらもうダメなんですよね。さっきの僕みたいに、「この都電の7000形は・・・」なんて言ってちゃあいけない(笑)。やはり良く言われるように、「まちづくり」の議論のなかでやっていかないと、ダメですよねえ。

・・・難しいんですけど、秋田内陸線の場合は鉄道ファンが存続運動をやり始めたってのは、みんなに判っているわけなんですけれども、ただ「鉄道を残せば良い」という問題ではなくて「地域の問題」なんだということで、いまみんな、いろいろ動き始めているわけですから、やっぱり都会でも、バリアフリーとか、地域をどうするかという観点で考えていけば、運動は拡がっていくと思います。

>>今日は本当にどうもありがとうございました。大穂さんのお話し、面白くて大変勉強になりました(拍手)。(聞き手:都電網研究会)

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都電網研究会インタビュー#1

竹田順一さん 
(NPO法人 横浜にLRTを走らせる会 監事)
2006年11月3日 渋谷にて

◇練馬に住みだしたのが昭和20年で、当時は板橋区の一部だったんだけど、あのあとすぐ練馬区ができたんだよね。

都電の17番というのは、池袋の西武の前から護国寺を経て数寄屋橋まで。当時はまだ丸ノ内線が開通していない時代で、有楽町まで山手線でパッと廻れば行けないことはないんだけど、あんまり山手線に乗る発想もなくて、何となく手軽な乗り物として、結構良く利用したんですよ。数寄屋橋が終点なので、銀座行くにしてもどこ行くにしても、よく乗りました。

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私は当時は中学生だったから、その分際で都心にひとりでなんかで出ることはあまりなくて、母親に連れられてっていうケースが多かったんだけど、母親が簡単に手軽に乗れるものだというんで、よくついていって、乗りましたね。当時から車内はガラガラってことはなくて、結構混んでた印象がありますね。

池袋から数寄屋橋には、まあ30分じゃあ行かないよね、1時間近くかかったのかも知れないけど、立ったままでも、車窓に映る街並みを眺めながら、それもゆっくりした速度で行ってくれるもんだから、これは子供心に楽しかったねえ。

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銀座に行くと写真にもありますように、あの四丁目を中心にして晴海通りと銀座通りの交差する一番の中心街で、そこで前後左右にそういう乗り物がね、目に見えて動いているから、新橋に行くとか、上野に行くとかでもわりと、乗るのにいろいろ考えないで、手軽に利用させてもらったという思い出はありますよ。

都電のなかで、印象に残ってるのが三か所あってね。まず17番・・・それに、銀座四丁目を通る電車、三田の方から1番の電車が来るんですよね。それから上野の駅前。西郷さんの銅像を前にして、ここから銀座に行けるんだとか、こっからこっちへ行けるんだとか。上野ってのは・・・当時は、集団就職の列車の終着駅が上野なわけですよね。

私も地方の出だから、そういう意味では身近に感じる部分があって、上野に来てみれば、ああ、この電車なら銀座に行けるんだとか、そういう部分で上野でも「銀座」っていうのは身近に感じられたってのはね、印象に残ってますよ(笑)。

上野って、駅前からちょっとカーブして、西郷さんの銅像の下を通って行くわけですから、コレに乗ってね、ああ、これから銀座に行くんだっていう、そういう印象がすごく残ってまして(笑)上野の駅舎なんか今までずっと変わらないでいるけど、そんななかで、都電という交通機関としての「目に見える便利さ」っていうかな(笑)、すごく感じられたものですね。

特に、昼間も良いんですけど,夜になるとね、当時は今の風景よりはかなり明かりの少ない感じでしたから、都電の灯りってものは、いわば動く道標としてね、あっちが銀座だこっちが池袋だというような、そういう感じがしました。そういう意味では池袋、銀座、上野ってのは都電の思いでの三大拠点として私の中にありますね。

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私は3年、仕事場を銀座四丁目にもった時代があるんですよ。昭和37年ですけどね。そのころは、この写真にあるように、和光から三菱のビルと、こっちが森永の地球儀ね。もうひとつの都電の思い出は晴海通りを走っている、何番の電車だったかな、勝鬨橋を渡るってのが印象にあるんですね。私の友達が築地のちょっと向こうのほうにいたもんだから、よく行ったんですが、勝鬨橋は昔はある時間になると、船が通るとき開いて戸が閉まる・・・その間はストップする・・・で、そこを電車が通るっていうね。今思うと考えられないよね(笑)。

>>今は、勝鬨橋をまた上げる集まりもあるということですよね。

◇ああ、ありますね。それは聞いてますねえ・・・小学校5年のころ、修学旅行が勝鬨橋ってのがあったしなあ(笑)実現するかなあ。

銀座の四丁目も、今でこそ朝から晩までラッシュみたいだけど、私はたまたま12月31日に会社の宿直をやったことがあるんですよ。これは宿直当番制度ってのがあってね。で、元旦の朝6時か7時頃、家に帰るんですよ。そのときにね、本当に銀座ってこんなに人がいなかったかな、って・・・そこを電車を走ってるってのがね。これまた、何にもないところをただ、カタカタ、カタカタとほとんど乗客も乗ってないで動いてるのがね。それを見て、なんだか「それでも、社会は動いているんだなあ」っていうね、感慨を持ちましたねえ。

>>それから間もなくして、都電の撤去が始まりましたね。

◇そう、都電の場合は第1次から6次までかな、少しづつ廃線になっていきましたよね。

>>でも今結局、オリンピック誘致も絡んで、銀座通りでももう一度都電を走らせようかっていう話も出てるみたいですね。

◇今、銀座は2つのものがあるんでしょうね。あのまちを再開発・再活性化するっていうなかで、ひとつは、六本木や汐留のような近代的な大規模再開発をやろういう意見と、もうひとつは旧来の銀座の街を保存して・・・実際に松坂屋を立て直そうというのに異論がでたりって話もあるんだけど・・・やはり銀座通りを昔の柳の並木だったり、藤山一郎なんかが歌っていたような昔の情緒を残していこうというね。

今銀座ってブティックがすごいでしょ。みゆき通りのほうかな、ああいうのは銀座の象徴だし、ああいう店って、お客さんが3階以上までなかなか上がってこない(笑)、イタリアやフランスでもそうなんじゃない?だから変に高層のビルができるよりも、高さを抑えて、スッキリしたまち並みにして、路面電車が走ってて、ブランド街や昔ながらの老舗が並んでいるというのが、本当は良いんでしょうね。

そういう意味で日本橋も今2つあるでしょ。高速道路を地下に潜らせるというのと、三井さんを中心にあそこでまた、すごい再開発をやるというのと。それらをどう調和させていくかっていうのがあるんだよね。

そういう中で、都市として交通機関はどうあるべきかっていうのは、日本の都市はあまり考えてこなかったよね。横浜もそうだけど。まちづくりの長期ヴィジョンをどうしていくかってことでは、イタリアなんかはもう、日本とは較べものにならないよね。建物の内装は変えても、外観は絶対いじらせないっていうよね、向こうは・・・そうやってまちの美観をきちんと、法律的にやる手もあるんだけど、観光のまちであったり、庶民の買い物のまちであったり、そうするとトランジットモールって発想も出てくるんだろうと思うけど、そういったことの整理がないと、路面電車をもう一回通しても、また「交通のジャマ」だなんて(笑)オチになるんじゃないかなんてね。考えますね。

>>旧いものと新しいものの調和というのは、路面電車の復活でも大きなテーマですね。

◇例えばね、この前ポルトガルのリスボンに行ったときも、次世代型の最新の路面電車も走ってるんだけど、28番っていう路線があってね。沿線のまち並みも旧いし、車両もポール集電式で、方向転換は運転手がわざわざ電車を降りて、分岐を鉄の棒でもって手で転換したりするっていうすごいレトロな路線があるんだよね。7

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わりと遠距離の路線は最新型の電車が走って、近場の下町のバイシャ地区を走るのが旧式の28番なんだけど、これが結構観光客で満員なんだね。下手すると、目の前の電車に乗れないくらいですよ(笑)。僕の見た所だと観光客が9割近いんじゃないかな。それと坂が多いから、上と下でケーブルカーが3路線あるんですよ。それで、まあ乗ってる時間はせいぜい3分くらいですよ。うち1路線は工事中で運行してなかったけど、川に近い下の路線と、上の方の路線と、距離にしたら300から500mくらいあるのかな。そのケーブルのところを車も走るんですよ。それは殆ど地元の人ですね。庶民の足としてはこれも欠かせない。

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2こういうケーブルカーの発想というのも・・・僕は日本のケーブルカーしか知らなかったんだけど、まちなかの交通手段だというのが新鮮だったね。1.2ユーロで、運転間隔は15分かな。

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もうひとつ、リスボン郊外にナザレっていう、歴史的な場所があるんだけど、これも大西洋の海辺の町と、山の上に町があって、そこを往復するケーブルカーがあって、それなんかは自転車もデッキに積んで走るんだね。自転車ごと乗り降りできる。それはかなり急勾配で、運転が15分間隔、乗ってせいぜい5分くらいだったけれど、乗客は殆ど地元の人だったね。

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◇これは、1963年に名古屋に駐在していて、お祭りを見に行った時にたまたま撮ったんですよ。今の都電なんか、混んでいるから花電車なんかきたら「何だ、乗せろよ」なんて文句が来ちゃうだろうけど、イベントとしては良いんじゃないですか?こういうのも、あったら楽しいものですよね。

今度横浜の市バスの廃止の問題があるでしょ。あれもね、会(横浜にLRTを走らせる会)で市長に意見書を出すことにしているんだけど、僕は、公営の交通が、赤字になったら一切やらないというのは、おかしいと思うんだよね。だったら、ゴミ収集や下水道が赤字になったら、一切やらないの?という話ですよ。公共の意味を間違えたら困るんだけど、今の都市整備のなかでも必要最小限のところは、税金を使うべきでしょう。赤字垂れ流しで良いというのは論外にしてもさ。交通の赤字一切ダメ!ってのも、極端だよね(笑)。

それと今も、交通行政についてのいろいろな諮問会議とか有識者会議とか、あるんだけど、利用者の視点は大切ですよね。(交通は)生活の一部分として、欠かせない大事な部分なんだから、利用者の声というのがどう事業に反映されていくかってことが、すごく大事なことだと思いますね。

そうすると路面電車ってのは、やはり単一の路線だけではあんまり意味がないのかもしれない。やはり昔の東京みたいに四方八方にネットが張り巡らされて価値が出て来ると思えるんだよね。何度も海外に行ったことがあるけど、思うのは、そのまちで線路があると方向とか方角が掴みやすいんだよね。バスは詳しい路線図があってもわかりにくい(笑)。

それとゾーン制の運賃と信用乗車が便利なんだよね。たまに検札があって、切符を持っていないと運賃の何十倍もの罰金を課せられるというね。でも殆ど検札に遭ったことはないけど・・・それに、信号の無い横断歩道で待っていても、自動車が停まってくれたりするんだよね。そういう社会を作って行くっていうのは、これからの日本でも大事なんじゃないかな。

>>なるほど、切符の制度を変えるということは、単に運賃の問題じゃなくて、社会を変えて行く、作って行くってことでもありますよね。交通全般の制度でも同じようなことが言えますね。今日はどうもありがとうございました。(聞き手:都電網研究会)

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